家庭の記憶を博物館で残す方法
展示ケースに入らないものを、どう残すか
資料整理をしていると、立派な作品や古い公文書よりも、扱いに迷うものの前で手が止まることがあります。たとえば、商店の包装紙、家計簿の切れ端、町内会のお知らせ、誰かの字で店名だけが書かれた小さな紙片。単体では、展示の主役になりにくいものです。
けれど、そういうものに生活の輪郭が残っています。紙の大きさ、折り目、鉛筆の濃さ、裏面のメモ。そこから、何を買い、誰に知らせ、どのような順番で一日を過ごしていたのかが、少しだけ見えてきます。もちろん、すべてが分かるわけではありません。分からない部分があるからこそ、資料として慎重に扱う必要があります。
「不明」と書くことの大切さ 博物館のラベルでは、つい断定したくなります。「これは昭和の台所で使われた道具です」と書けば、読む人には分かりやすい。でも、寄贈された経緯しか分からず、実際にどこで使われていたのか確認できない場合もあります。
そのときは、「昭和後期のものと考えられる」「寄贈者の家庭で使用されていた可能性がある」と書くことになります。少し歯切れが悪い表現です。それでも、私はこの歯切れの悪さを残したいと思っています。資料の前に立つ人が、確定した事実と、私たちの推測を区別できるからです。
「不明」は、資料を軽く扱う言葉ではありません。むしろ、今後別の記録と出会ったときに書き換えられる余白です。博物館の仕事には、きれいに答えを出すことだけでなく、まだ答えのない状態をきちんと保存することも含まれています。
家庭の記憶は、形がそろっていない 個人のお宅から資料を受け入れると、同じ時代のものでも保存状態が大きく違います。丁寧に箱へ入れられた写真もあれば、引き出しの奥で他の紙に挟まれていたレシートもある。家族にとって大切だったものが、必ずしも見栄えのよいものとは限りません。
だから、地域の歴史を残すときは、選びやすいものだけを選ばない視点が必要だと思います。著名人の手紙や大きな出来事の記録はもちろん重要です。ただ、毎週の買い物、学校からのプリント、季節ごとの包装紙のようなものがなければ、歴史は出来事の一覧に近づきすぎてしまいます。
娘の学校から届くお知らせを見ていると、十年後にはこれも生活資料になるのかもしれない、と考えることがあります。本人には少し嫌がられそうなので、勝手に保存するのはほどほどにしていますが。